008.ジャズとワタシ(2001/11/16)
- theamaries1994
- 2021年9月9日
- 読了時間: 4分
ワタシの家でとっている新聞の今朝のコラム欄にこんな話が載っていた。
「音楽は地球でいちばん古いお医者様。音楽評論家の湯川れい子さんが日本音響学会誌でそう語り、証拠として南フランスの洞窟に残る「3人兄弟の踊るシャーマン」という壁画をあげている。(中略)」
「人間の暮らしと切っても切れない関係の音楽。」
「音楽は、いやし、浄化、共感である。」
今朝、寝ぼけ眼をこすりながらこの記事を読んで嬉しくなった。音楽が身近にあることの幸せ。アフガニスタンを実効支配していたタリバン政権は音楽を禁じていたそうだ。今の日本はそんなことなくてよかったなあと思いつつ、夕べのジャズ・コンサートのことを思い出しながら出勤した。
同僚に誘われて仕事の帰りにジャズ・コンサートに足を運んだ。ボジョレー・ヌーボーと南フランスの家庭料理のおまけつき。車だったのでボジョレー・ヌーボーは1杯だけ口にした。
ワインは、飲まず嫌いの部分もあってあまり口にしないお酒だったが、ボジョレー・ヌーボーはけっこういけた。これはワタシがワインの味が分かるソムリエなみの舌を持っているからではなく、南フランスの家庭料理とよく合っていたからだと思う。
それにしてもブルーチーズは匂いも味もくさかった…。
一通りの食事とワインを堪能した後、いよいよジャズ・コンサートの始まり。
大学時代に一度だけジャズ・コンサートを聴いたことがある。いちばん前の席で、その迫力に圧倒されたことだけ覚えている。
それ以来のジャズ。ピアノとウッドベースとドラムとアルト・サックスのカルテット。知っている曲は一つもなかったが、一つ一つの音が心に落ちていった。
「ジャズの魅力って何だろう?」と考えながら聴いていてこんなことを思った。それは「一つ一つの楽器がそれぞれの音を主張しつつ、しかし見事に調和しているところ」と「メロディの強さ」ではないか?
ピアノ・サックスは当然のごとく、曲の中心にいてアドリブを織り交ぜながら、メロディを奏でる。その点、何気なく聞くとあまり目立たないドラムとウッドベースが、かなりいい味を出しているのだ。ドラムはリズムをキープしつつ曲にメリハリを与えている。ウッドベースはかなり歌っている。「音階のあるリズム楽器」であるベースだが、メインをくうことなく、しかも自己主張をしている。そのかっこよさに惚れてしまった。
どの楽器も、ほかの楽器の邪魔はしていない。しかし、決してほかの楽器の「影」になることはない。カルテットのメインであるピアノ・サックスも、一人で勝手なことをしているかというとそうではない。お互いにお互いを引き立てあいながら、ベース・ドラムという「土台」にしっかり足を下ろして奏でている。
「自己主張の調和」などというと、なんだかいっぱしの音楽評論家みたいだが、そんなことを感じた。ふつうのロック・バンドも同じではないだろうか。ビートルズも強烈な個性を持った4人が見事に調和したからこそ、数々の名曲が生まれ、永久に歴史に残るグループとなり得たのではないだろうか。アルフィーも三者三様バラバラなのだが、それぞれが自己主張しつつ互いを支えあうことで、絶妙な一体感を生み出しているのだと思う。
そして、もう一つの魅力。「メロディの強さ」。これはクラシックにも共通する。
メロディに力があれば、歌詞がなくても人の心を打つことができる。クラシックなどはその最たるものではないか。
今、日本で流行している音楽の中に、メロディに力を持った楽曲がどれだけあるだろう?
オカチンは卒業論文で小室哲哉を取り上げた。われわれが大学の頃は小室ミュージックが全盛で、THE AMARIESはつねに彼の音楽に対立的な立場をとっていた。
その小室ミュージックは今でも残っているのだろうか?小室哲哉という人は、かなりの才能を持ったすごい人だとは思うが、あの頃量産した彼の楽曲は大量消費のアメリカタイプだったような気がする。小室本人もそれを分かった上で、楽曲とミュージシャンを量産していたのだろう。
歌詞ももちろんだが、メロディに力のある曲は残る。だからクラシックもジャズも残っているのだと思うし、それを自分の体で感じることができた。
久しぶりに心が和み、いやされ、浄化されたような気がした。「音楽を楽しめる世の中に生まれてよかった。」と素直に思えた。音楽のない生活ってきっと退屈なんだろうなあと思う。特に楽器を奏でるおもしろさを知っているから、よけいにそう思う。
心がすっと軽くなって夜空を見上げたら、星がとてもきれいだった。しし座流星群ももうすぐだし、いよいよ大好きなオリオン座の季節になってきた。そんな嬉しさと、心に響く音楽を新しく手に入れた嬉しさで、居眠り運転もせず、気持ちよく帰路につくことができた。
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